長野ささら獅子舞は、1713年に初めて舞われた時から300年の時を越え、引き継がれてきた埼玉県行田市長野地区 久伊豆神社に伝わる3匹獅子の獅子舞です。

毎年、9月18日、19日に近い週末に久伊豆神社にて奉納されます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2015年は、9月12日に久伊豆神社、13日は各会場にて舞が奉納されます。

sasara_poster

———————————————————————————

長野ささら獅子舞について

昭和59年6月に長野地区出身者の広川よしこさんが、長野地区の歴史や人に聞いた話を基に長野ささら獅子舞について語った音声を残してくれていました。その音声を文面に書き起こしました。聞いただけでは気づく事のできなかったことが、浮き上がってきました。

語りの中で不明だった点について、リンク先を追加しています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

語り: 長野地区出身者 広川よしこさん

録音月: 昭和59年6月

行田市長野に伝わるささら獅子舞についてご紹介いたします

爽やかな青空の下、稲の取り入れを前に、人々はその年の豊作と家内安全を祈る旧長野村の鎮守様、久伊豆神社の大祭が9月18日と19日ににぎやかに執り行われます。秩父鉄道沿線の東行田駅に降り立つと、そこが行田市長野です。

はるかに秩父連山を仰ぎ、近くは利根、荒川の水益として恵まれ、水田耕作が盛んに行われています。

近年、駅の周辺は町の様相に変わってきていますが、少し南は見渡す限りの田園で、普通、稲と麦との二毛作が行われています。でも、米が主要農産物です。春ともなると菜の花や蓮華畑が続き、四季折々の美しい田園風景を一望することができます。

昭和24年、近くの町村合併が行われ、市政が施行されたときに、長野村も行田に合併しました。江戸時代に築かれた忍城跡から東方、2キロの地点であり、先史時代から開けた埼玉県の発祥地、埼玉(さきたま)に隣接しています。長い時代祖先から受け継がれた故郷の古典芸能の長野のささら獅子舞が後継者不足ということで絶えそうになったのですが、近年再び長野地区の人々、ことに前から守ってきたすり手の方々や一桜町内会の方々により、熱心にこの長野ささら獅子舞を保存しようと言う声が高まり、若い後継者育成指導にあわせて保存に力を注いでいますことは、文化遺産を守るという点で、まことに頼もしい限りです。同じ思いで今から20年前の昭和39年秋に、私が才望調査した資料が手元にありますので、それに基づき解説してみましょう。

この獅子舞は、久伊豆神社のお祭りの日に奉納されます。久伊豆神社は、長野の長久寺境内に建てられた神社です。長い間は獅子舞の道具は、この寺の一郭に納められて保存されたのです。

ですから、寺と神社に注目しましょう。

長久寺は、一の谷合戦で手柄をたてた成田五郎・家時を開祖旦那とし、通伝上人が開山したそうです。慶長19年に受領30石の御朱印を賜りました。忍城の艮(ごん)、つまり、丑寅の方角にあたり、歴代城主の祈願所であったと言われています。武運長久を祈願し、寺の名も長久寺としたのです。

※成田五郎【なりた・ごろう】 生没年不詳
 源頼朝の臣。助高のことか。寿永3年(1184)一の谷合戦の戦功により行田の地を賜る。

※成田家時【なりた・いえとき】 1364~1420 57歳
 五郎。成田氏11代。家綱の子。応永18年(1411)龍淵寺(熊谷市上之)を創建。6万貫の領地を所有していた。

久伊豆神社は、この長久寺の建立と同時に境内の鎮守とし、また成田領内を守る成田氏の産土神と言う事で、祀られたそうです。

祭神はナムジノミコト、つまり大国主命だそうです。明治以後、もと前方後円塚の上にあった白山冥利権現と賞する白山神社、農耕の神として、師馬の御霊を祀ってあると言われるシャクジイキ稲荷神社と合祀してあります。

※大国主命の通称: 大己貴命(オホナムジノミコト)

長野ささら獅子舞の由来について、文政6年、松平下総守が、桑名から忍へ移動となりました。当時忍城の神社の祭殿は、質素だったのでこれを盛んにするように指導したのだそうです。

獅子舞を代々受け継いできた老人の話によりますと、昔、忍藩の殿様が太刀と共にささら獅子舞に関する事が書いてある巻物一巻をこの久伊豆神社に奉納しました。村では、宝物として保存し、継承してきたけれども。大東亜戦争中、氏子の代表の家で保管されるようになって、誰の手元に渡ったのかもわからなくなってしまいました。今では全く姿をみせないばかりか、貴重な文献や品物があったことさえ、人々の記憶から忘れられている。けれど、私は見たのです。戦前には確かにあったのです。だけど宝物だ、もったいない、罰が当たると、広げて読む事もしなかった。っと語っておられました。巻物と太刀は、ささら芸能を奨励したので、ささらがはじまったと言う説について、通じる話です。

なぜ再び出てこないのでしょうか?悔やまれてなりません。なお、この舞う獅子のほかに舞う事をしない獅子頭がひとつあります。昔、ここの神社には獅子頭がなくて、騎西の玉敷神社から借りてきて再び迎え入れられなかった伝説をもつ片耳になって威厳をもって悪魔払いだけに活躍する獅子頭がある事も知っておいてください。

※ 玉敷神社(騎西):http://ja.wikipedia.org/wiki/玉敷神社

ささらの名前について申し上げましょう。ささらとは普通二種類あると考えられています。中国から伝来したという両手で伸び縮みさせるものとは違って、ここ長野のささらは30cmぐらいの竹を細かにわって束ね、ちょうど茶の湯で使う茶筅のように作ったもので、これを右手にもって、簓子という凸凹のある細い棒を左手にもってその刻みを擦って、音をだす昔田楽の舞に用いた手製の楽器を使ったと推測されます。その楽器を用いたので、ささらとかささら獅子舞とか呼ばれるようになったのです。

※ 中国伝来のささら:http://ja.wikipedia.org/wiki/ささら

※ 擦りささら1: http://www.bonodori.net/fujisawa/sasara-gakki.htm

※ 擦りささら2: http://www.searchnavi.com/~hp/tojin/sasara.htm

江戸時代、角兵衛獅子やその他各種の舞と区別してそう呼ばれていたのですが、あとにこの楽器ささらを用いないようになっても、ささらという呼び名だけが残ったのです。ついでながら踊りと舞とは違うのです。どうちがうかと言いますと、足を持ち上げるのが踊りです。舞というのは、足をするのです。

それが基本なのです。獅子舞を舞う人を、すり手と申します。すり手のわらじの地上をする動作にも注目してください。

※ 角兵衛獅子: http://ja.wikipedia.org/wiki/越後獅子

長野のささらの特色を先に申し上げましょう。一つは、獅子頭です。県内で継承されている中でも古い時代のものと見られています。竜形式の前後に長い頭でことに角が長く顔が矩形で全体に扁平な形をしています。土地の人々は竜頭獅子と呼んでいます。私は、竜頭の特殊なもので重箱獅子と言われるものに属していると見ています。

※  重箱獅子例: http://naniaso.blogspot.jp/2007_10_01_archive.html

二としてヒダの状の色紙です。後頭部に武者のような形をした五色の色紙をつけています。これは、切り下げというもので色紙をヒダ状に細かく切ったものを沢山つけているのです。獅子は威勢良く乱舞するので、時々この色紙が地面に落ちるのです。見物人はこれを我先にと競って拾うのです。とれるなら獅子に近づき抜き取ってご覧なさい。そして、大事にするのです。この色紙は神社のお札とみなされているのです。五穀豊穣、家内安全、無病息災のお守りとか、お札と考えられているのです。

家に持ち帰り、戸口に貼ったり、袋に入れて身につけた記憶があります。ふるさとを離れた人は、今年の色紙を送ってほしいと遠くから言ってくるほどでした。

三として道中下りの曲をあげましょう。農民としての祖先が、なんとすばらしいものをうみ、そして、伝えてくれた事よと驚嘆するひとつは、道中下りの曲です。曲もよい曲ですが、ことに道中下りの曲の美しいことは、自慢したいと思います。村人の手製である横笛の澄んだ音色に耳を傾けてください。祭りの日、笛方は紋付の羽織袴姿だったのです。

四として舞についてです。舞を見て頂ければ分かる通り、長時間に渡り、強弱の調和した運動美は、奉納芸にふさわしい優雅なもので人々の鑑賞にあたいするものです。様式な舞曲とあるテーマをもったものとの二種類があります。舞の中央に置くものによってその曲が決まるのですが、例えば、弓くぐり、笹かがり、花割り、どれか一曲を選んで、舞われるのです。それが様式的なものです。あるテーマをもったものには、鐘巻があります。

特色の五として鐘巻をあげます。

パントマイムとしての舞曲で埼玉県に二百数十種の獅子舞が現存する中で、ここ長野以外では、みられないと言われているのが、この鐘巻の舞です。あとで詳しくご紹介致します。

六として、導入部をあげましょう。

太刀と棒使いです。今日ではやる人がいなくなってしまいました。しかし、古くは、太刀を用いて方固めを行い、そのあと、棒術が行われたと見られています。太刀使いと棒使いが二人一組ずつに別れ、立ち振る舞いの型を演じ、悪魔を払い身を清め、この芸の上をかたったのです。もっとも神社境内で奉納される弓かがりや花割りの導入部に演じたのです。つまり、神社では必ず太刀ぶるまいが行われたと言えるのです。いかにも日本の神事にふさわしい仕草です。

七としておかめ、ひょっとこによるおこわざです。どの曲のどの部分に登場したかよくわかりませんが、こういう場面があったのです。おかめ、ひょっとこの道具、いろいろあります。おかめ、ひょっとこの道化役がおこわざを演じ、風紀状よくないと言われるほどの手のこんだものであったようです。化粧道具や中国の人道と言っているぼうじに関する書道具も20年前にはあったのです。さぞわいざつなエロチシズムを発散した滑稽演技だったのでしょう。

特色の八は、所要時間が長い事、鐘巻の巻きは約1時間半、その他の曲でも、1時間はかかります。

九として舞う人、笛方、歌い方、とうに少なくとも五年から10年の年月をかけて稽古しないと一人前になれないと言われています。昔は、世襲されていたことも特色です。九として、20年前まで、道具の保存と神社の祭日にすり手の支度部屋が長久寺であったことをあげておきましょう。

十として、時代の変遷に伴い、後継者が少なくなった事、今から20年前で20代の若者がすり手として、一人も加わっていなかったのです。43年頃から祭りでも獅子舞はみられなくなりました。近年ようやく再興させつつあるのです。

次に長野のささらの形式について、申し上げましょう。まず、道中下りをご覧ください。行列の順序は次のようになっています。お祓いの麻(ぬさ)をもつ神主、氏子代表、弓を持つすり手代表、つまり、舞をする人の代表です。続いて、軍配をもって怖い顔をしたお面をかぶっていますのは面化です。雄、雌、雄の順に三頭の獅子が続きます。笛方、そして、棒使い、その後に花籠、その他の所作役が並んでいます。さらに昔は、大太鼓一台を数人で引き受けて、道中下りにだけ加わったと言われています。

道中下りの笛の音もゆかしく縦に長い、長野村を神社から、白山の方へ練り歩くので、村中を踏みしめていく感じさえするのです。この道中下りは、しんらいしん、つまり神が天より下ってくる意味をもった形態と思われています。ここに並んだ人々は、宵宮のうちに神殿でお祓いを受け、身を清められているのです。行列の目的地は、直ちに地上舞台となります。久伊豆神社、長久寺、江戸時代、栄えたというがっから薬師、そして、白山神社の各境内、それから氏子代表の家々の庭を用いた地上舞台です。行列に伴う笛の音が秀でていることも近隣の村々でも定評があります。厳かな美しい調べは響き渡る舞も繊細で長時間に渡ります。この道中下りから始まる長野のささら獅子舞は、相当大規模であったことを伺わせます。

服装や役割について注目してみましょう。獅子舞の先導者として、面化がおります。音頭取りである猿田彦命は厳めしい顔をした面化をかぶっているので、みんなに面化と呼ばれています。

※  猿田彦命: http://ja.wikipedia.org/wiki/サルタヒコ

泥色をした天狗のような顔たちなのですが、鼻はそれほど高くないので、時々、右手に持っている軍配を叩く棒で鼻高の真似をします。もっともこれは、獅子が舞っているときのことです。面化は、時々、道化のように演じ、見物の子供達に戯れる動作はすこぶる活発で滑稽な仕草をするのですが、面をみると恐ろしさが迫って、笑うどころではありません。子供の頃、私は悲鳴をあげて逃げたのを覚えています。見物人は取り巻いて作った人垣の円は、時々この面化が近づくと何もしなくても悲鳴をあげて後ろにさがる光景が見られます。それでも人気者として、この役を演じる人の持ち味が自由に発揮されて、見ていても楽しいのです。舞に勢いをつけ、それと同時に長時間にわたる獅子舞に変化を与え、見物人の興味を促し、舞全体の統制をとって、集客へと導く役割を果たすのです。金色が光る軍配には、天下太平、五穀豊穣と書かれています。

次に獅子ですが、何と言っても舞の中心は獅子です。獅子頭をかぶり、顎から下に牡丹を象徴したとみられている模様を染め抜いた紫の布をさげ、中に入っている人の顔を覆っています。獅子頭の真下には、大きい巴の紋をつけた腹掛けをつけて、布目を通して、外を覗いているのです。

腹の部分に小太鼓を結えて、両手にバチを持ち一人立ちする獅子です。面化と同じ裁着袴にわらじをはいています。3頭一組として舞うのです。先頭の青色の雄獅子は土地の人々に方眼と愛唱されています。方眼に通じる名前でして、僧侶のような名前です。舞には、方眼が主役です。顔の長さが28cm、横22cm角の長さが32cm5mmです。中獅子は、雌獅子でえび茶色をしています。緑色は、後獅子で方眼と同じ雄獅子です。各々の獅子の歯には配色良く、金か銀が塗ってあります。

木綿の紺地に祝い事にちなんだ松竹梅、鶴亀の模様が白く浮き出ている巴布で、じばんと裁着を身につけています。裁着と袴の一種で、膝下を脚絆のようにしたものです。花笠といわれているのは、4人の少女が竹で作った花笠を頭にのせています。花割り、弓くぐりに登場するのです。昔はささらをすったのでしょうが、その仕草は現在みられません。鉢植えのかぶくをそのまま頭にのせている格好で箱形の風流傘と言うものです。花は牡丹と桜ですが、強い色彩で華やかさは目を見張るほどです。檜や杉木立がおいしげる神社の森を背景にすると一際はえて美しいのです。

歌い方は、傘をかぶり傘から布をさげていて裁着袴をつけて草履履きです。ささらの途中で歌を歌うのです。時折、木遣りのようなかけ声もいれます。舞を進行させる役目をしています。

歌い方の歌う歌詞はささらをする場所によってきまります。

久伊豆神社境内で歌う2種と長野長久寺境内での2種、がっから薬師境内で歌う2種、計6種が残っています。

あとその氏子の繁栄を願った歌です。

しめ縄にしょじの菩薩をないこめて、もうずる氏子の手足繁盛

朝日さすあさひさす夕日輝くこの森に

黄金作りの宮がたつそろう

もりも林もせみのこえなりをしずめて歌の声きけ

次に曲目について述べましょう。様式的なものとひとつのテーマを持った2種類があります。神社の境内で奉納するかかりものと、そうでない鐘巻です。かかりものは、神楽の祭物にあたる花、笹、弓などにかかったあとこれを口に加えて舞うものです。花割り、笹がかり、弓くぐりが現在行われています。古くは、門下割り、橋がかりがあったようです。一方、鐘巻は、県内でも珍しい曲目です。蛇がかりの変形で、道成寺にちなみ清姫が変身した蛇が鐘に身を隠すのですが、隙をねらって獅子がこれを飲んでしまうという形になっています。

舞の構成は、一般的には、序の舞、本舞、歌、結びの舞となっているのですが、なんせ長い曲の事、詳しく述べると、例えば、かかりものの弓くぐりの舞構成は道中下り、棒使い、しらせともいう刷り込み、そして、おかざきっきん、弓くぐり、ちらし、歌、笛の舞という構成です。鐘巻の舞構成は、道中下り、つっこみかぐら、刷り込み、おかざきっきん、鐘巻、ちらし、歌、終わりの舞となっています。次に、鐘巻の内容について説明してみましょう。面化が扮する安珍は、清姫を連れ出して、仲良く遊んでいます。そのとき、安珍は獅子が三頭やってくるのに気づきました。自分の行為を獅子に知られないように大慌てで清姫を蛇にかえて鐘の中に隠してしまうのです。

獅子がそこへやってきました。変な鐘が置いてあるので、不思議におもい、周囲の様子を伺います。かがみ込むようにして鐘の中の様子をきにしています。その鐘の中で、息苦しくなった清姫の化けた蛇が破れ穴から時々、首をだして外の様子を伺うのです。この鐘を中心にして、内と外との事態は、緊迫状態になります。舞はやんで笛の音がひときわ冴えて周囲に響きます。しばらくして突然、安珍が立ち上がると獅子方眼が他の獅子に合図して、この蛇を飲み込んでしまうのです。

このように伝えられた話があります。最初から三頭の獅子が登場しているのではじめは、理解しにくいのですが、鐘に蛇をかくすところからは話と一致しているので、みていてもよくわかると思います。

長野のささらが民俗芸能の対象となる理由をまとめてみましょう。人々の神に対する深い信仰に結びついていること、日時が恒例で神社の祭日であること、民衆的なものであり、古来多くの人々によって育成され、継承されてきたものであること、土地の人々で演技を職業とする人でないこと、まだ、演技をみることができること、今なら、継承できる事、以上、芸術的な表現形式をとって具体的に現れたものが、ささらであり、まさしく民族芸能と言えましょう。ささらの生活の歩みを知る貴重な文化遺産です。いろいろ申し上げましたが、民俗芸能をささえるべき、社会的基盤の変動により、伝承していく上で、困難な点をもたらしている現状です。このようなとき、後継者養成に尽力している方々の励みとなり、文化財保護のための一樹となれば幸せです。全体を短くまとめよという注文でしたが、長くなってしまいました。お許しください。ご清聴ありがとうございました。

昭和59年 6月 長野出身者 広川よしこ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

歴史【History】” に対して2件のコメントがあります。

  1. はじめまして、実験的にGoogleカレンダーで三匹獅子の暦を作っている者です。
    こちらのブログもカレンダー内にリンクを張らせて頂きました。
    何か問題がありましたら、お手数ですがご連絡頂ければと思います。

    1. shin より:

      ありがとうございます。カレンダー拝見しました。これだけの団体が活動されているのですね。リンク大歓迎です。
      今後ともよろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。