長野ささら獅子舞について

昭和59年6月に長野地区出身者の広川よしこさんが、長野地区の歴史や人に聞いた話を基に長野ささら獅子舞について語った音声を残してくれていました。その音声を文面に書き起こしました。聞いただけでは気づく事のできなかったことが、浮き上がってきました。

語りの中で不明だった点について、リンク先を追加しています。

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語り: 長野地区出身者 広川よしこさん

録音月: 昭和59年6月

行田市長野に伝わるささら獅子舞についてご紹介いたします

爽やかな青空の下、稲の取り入れを前に、人々はその年の豊作と家内安全を祈る旧長野村の鎮守様、久伊豆神社の大祭が9月18日と19日ににぎやかに執り行われます。秩父鉄道沿線の東行田駅に降り立つと、そこが行田市長野です。

はるかに秩父連山を仰ぎ、近くは利根、荒川の水益として恵まれ、水田耕作が盛んに行われています。

近年、駅の周辺は町の様相に変わってきていますが、少し南は見渡す限りの田園で、普通、稲と麦との二毛作が行われています。でも、米が主要農産物です。春ともなると菜の花や蓮華畑が続き、四季折々の美しい田園風景を一望することができます。

昭和24年、近くの町村合併が行われ、市政が施行されたときに、長野村も行田に合併しました。江戸時代に築かれた忍城跡から東方、2キロの地点であり、先史時代から開けた埼玉県の発祥地、埼玉(さきたま)に隣接しています。長い時代祖先から受け継がれた故郷の古典芸能の長野のささら獅子舞が後継者不足ということで絶えそうになったのですが、近年再び長野地区の人々、ことに前から守ってきたすり手の方々や一桜町内会の方々により、熱心にこの長野ささら獅子舞を保存しようと言う声が高まり、若い後継者育成指導にあわせて保存に力を注いでいますことは、文化遺産を守るという点で、まことに頼もしい限りです。同じ思いで今から20年前の昭和39年秋に、私が才望調査した資料が手元にありますので、それに基づき解説してみましょう。

この獅子舞は、久伊豆神社のお祭りの日に奉納されます。久伊豆神社は、長野の長久寺境内に建てられた神社です。長い間は獅子舞の道具は、この寺の一郭に納められて保存されたのです。

ですから、寺と神社に注目しましょう。

長久寺は、一の谷合戦で手柄をたてた成田五郎・家時を開祖旦那とし、通伝上人が開山したそうです。慶長19年に受領30石の御朱印を賜りました。忍城の艮(ごん)、つまり、丑寅の方角にあたり、歴代城主の祈願所であったと言われています。武運長久を祈願し、寺の名も長久寺としたのです。

成田五郎【なりた・ごろう】 生没年不詳
 源頼朝の臣。助高のことか。寿永3年(1184)一の谷合戦の戦功により行田の地を賜る。

成田家時【なりた・いえとき】 1364~1420 57歳
 五郎。成田氏11代。家綱の子。応永18年(1411)龍淵寺(熊谷市上之)を創建。6万貫の領地を所有していた。

久伊豆神社は、この長久寺の建立と同時に境内の鎮守とし、また成田領内を守る成田氏の産土神と言う事で、祀られたそうです。

祭神はナムジノミコト、つまり大国主命だそうです。明治以後、もと前方後円塚の上にあった白山冥利権現と賞する白山神社、農耕の神として、師馬の御霊を祀ってあると言われるシャクジイキ稲荷神社と合祀してあります。

※大国主命の通称: 大己貴命(オホナムジノミコト)

長野ささら獅子舞の由来について、文政6年、松平下総守が、桑名から忍へ移動となりました。当時忍城の神社の祭殿は、質素だったのでこれを盛んにするように指導したのだそうです。

獅子舞を代々受け継いできた老人の話によりますと、昔、忍藩の殿様が太刀と共にささら獅子舞に関する事が書いてある巻物一巻をこの久伊豆神社に奉納しました。村では、宝物として保存し、継承してきたけれども。大東亜戦争中、氏子の代表の家で保管されるようになって、誰の手元に渡ったのかもわからなくなってしまいました。今では全く姿をみせないばかりか、貴重な文献や品物があったことさえ、人々の記憶から忘れられている。けれど、私は見たのです。戦前には確かにあったのです。だけど宝物だ、もったいない、罰が当たると、広げて読む事もしなかった。っと語っておられました。巻物と太刀は、ささら芸能を奨励したので、ささらがはじまったと言う説について、通じる話です。

なぜ再び出てこないのでしょうか?悔やまれてなりません。なお、この舞う獅子のほかに舞う事をしない獅子頭がひとつあります。昔、ここの神社には獅子頭がなくて、騎西の玉敷神社から借りてきて再び迎え入れられなかった伝説をもつ片耳になって威厳をもって悪魔払いだけに活躍する獅子頭がある事も知っておいてください。

※  玉敷神社(騎西):http://ja.wikipedia.org/wiki/玉敷神社

ささらの名前について申し上げましょう。ささらとは普通二種類あると考えられています。中国から伝来したという両手で伸び縮みさせるものとは違って、ここ長野のささらは30cmぐらいの竹を細かにわって束ね、ちょうど茶の湯で使う茶筅のように作ったもので、これを右手にもって、簓子という凸凹のある細い棒を左手にもってその刻みを擦って、音をだす昔田楽の舞に用いた手製の楽器を使ったと推測されます。その楽器を用いたので、ささらとかささら獅子舞とか呼ばれるようになったのです。

※  中国伝来のささら:http://ja.wikipedia.org/wiki/ささら

※  擦りささら1: http://www.bonodori.net/fujisawa/sasara-gakki.htm

※  擦りささら2: http://www.searchnavi.com/~hp/tojin/sasara.htm

江戸時代、角兵衛獅子やその他各種の舞と区別してそう呼ばれていたのですが、あとにこの楽器ささらを用いないようになっても、ささらという呼び名だけが残ったのです。ついでながら踊りと舞とは違うのです。どうちがうかと言いますと、足を持ち上げるのが踊りです。舞というのは、足をするのです。

それが基本なのです。獅子舞を舞う人を、すり手と申します。すり手のわらじの地上をする動作にも注目してください。

※  角兵衛獅子: http://ja.wikipedia.org/wiki/越後獅子

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